散歩ブログ (だよ散歩)

犬も歩けば棒に当たる

金沢くいだおれ再び

師走の金沢くいだおれ旅と、ほぼ同じコースをたどる如月の金沢くいだおれ旅に行ってきた。もともとは如月が本命で、昨年の秋ごろだったか「来年の冬あたり金沢みんなで行かない?」とゆるく募った際、クリームパン(というニックネームの金沢単身赴任中の友達)が「12月にくれば香箱蟹あるよ」と巻きで提案したのを聞いて、急行チームが師走の陣を張ったのだった。

 

sanpoblog.hatenablog.com 

そのようすは上のリンク先にくわしく書きとめてあり、如月の陣が本陣なのだが師走の陣とやってることはあまり変わらない(香箱蟹のシーズンが過ぎていることくらい)。そこで今回は、フリータイムにひとりで寄り道した場所のみブログに書きつけておこう。だから表題のわりに飲み食いの場面がない。書いてない時間と場所で食べたり飲んだりしてるわけ。

 

というわけで徳田秋聲記念館にきてみたら、工事で12月29日から3月中旬ごろまで長期にわたって休館だった。そういうことは金沢にかぎらず時々あるから仕方ない。月曜などは休館でないか事前に確かめるけど、長期の休館はなかなかチェックしない。リフトやロープウェイなどのメンテナンスもシーズンオフは要注意、だが忘れる。

 

徳田秋聲は金沢の三文豪として泉鏡花室生犀星と並び称される作家。それぞれ文学史の上で独特な位置を占め、流派や主義に染まらず個性の輝きが時と共に眩しくなっていく……ように思える、そんな人たちだ。

 

泉鏡花記念館には先日たまたま入ったから、今回は徳田秋聲室生犀星の記念館へついでに……と思ったが秋聲記念館については休館ではしかたない。それにしても金沢、如月ともなると雪深い。あと外国人やっぱり多い。

 

もとは銀行だったらしい、金沢文芸館に寄り道する。入館料100円というのがなんとも……しかしまぁ妥当な金額だった。

 

1階は銀行の窓口カウンターを生かしたつくり。ということは上の階は事務室だったところか。入場料を払うと、2階の五木寛之フロアだけは撮影禁止だというが、なぜ五木寛之

 

3階に行ったら理由がわかった。金沢市主催の、泉鏡花文学賞の受賞者と作品が展示されており、歴代審査員も掲示されていた。五木寛之ただ1人だけ、昭和48年(1973)から現在まで50年以上ずっと審査員であり続けていることが判明。それでか。

 

金沢文芸館をあとにして、繁華なほうへ抜けようと金沢城のへりを歩いていく。除雪してなかったら足が埋もれて進めないや。さすが日本海側だ。

 

屋根雪 落雪注意なんて立て看板が出てるのは、金沢城のすみにある尾﨑神社。もちもとは東照宮として、加賀藩の4代目が幕府の許可を得て城内に創建したのだが、明治7年に尾﨑神社と改称したのは明治政府に気を遣ったのか。

 

しかも明治11年には場内に駐屯する大日本帝国陸軍の都合で社殿をここ、金沢城のへり(隅っこ)に移されて今日にいたる。しかし、社殿がなにやら板で囲まれてるのは一体なに?

 

近くに寄って掲示を読むと、雪害をふせぐために板で守ってるということだった。なるほど。

 

あの板は雪害をふせぐために張られてる、ということは夏はないのかな? 東照宮だっただけに葵の紋がついてる。加賀藩の前田家、幕府に睨まれないように必死だったんだろうな。

 

さらに歩いていくと、どこか洋風な門のある尾山神社にさしかかった。和洋折衷というのだろうか。どことなく中華っぽくもあるので、いうなれば和洋中折衷?

 

門はハイカラだったけど、その向こうの社殿はわりと普通。こちらは尾﨑神社が改称や移転を余儀なくされた明治の初め創建で、幕府に気を遣わなくてよくなったせいか、前田家の別邸だった土地に初代の利家と正室まつを祀った。

 

だから利家の像がある。槍を持ってるのはいいとして、大黒さんみたいな袋をかついでるのは一体なんだ? あれは母衣(ほろ)といって骨組つきの流れ矢よけで、戦場では目印を兼ねたが目立つので危険をともなった。織田家の軍には佐々成政の黒母衣衆10騎と、前田利家の赤母衣衆9騎の計19騎いたとなん。

 

それから、にし茶屋街に近い室生犀星記念館まで歩いていって入館した。生家の跡地に建てられた記念館だが、生まれたときに母はすでになく名前も不明で、まもなく父も他界したため近くの雨宝院という寺に出された。

 

それがこの寺で、犀川の川辺に立っている。室生犀星の犀の字は犀川の犀で、ちかくに犀東という文人がいたので犀西あらため犀星とペンネームを若いころ勝手にいただいた。いまや犀星の文名がむしろ高い。

 

記念館には初版本の表紙が下から上へ時系列で並べてあった。明治生まれで大正から昭和にかけて長く活躍した多作な作家で、73歳まで生きたから大きく3期に活動が分かれる(あいだに休んでるような期間がある)のを、視覚化してある。

 

神明宮という神社も近くにあり、犀星も子供の頃よく遊びにきた。中原中也が子供のころ軽業興行(サーカス)を見たのも神明宮の中で大欅の下だというのだが、ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん空中ブランコ揺らす天幕が張れる広さだとは、ちょっと思えない。あられが降ってきた。

 

ゆあーん

ゆよーん

ゆやゆよん

 

 

茅野

冬はスノーハイク、春夏秋はふつうのハイクで八ヶ岳霧ヶ峰、入笠山などを歩く起点として茅野によく泊まる。駅に掲示してあるパネルをみていて、諏訪大社御柱祭で木落しする公園とか、貧乏神神社とか、寒天蔵とか見物して茅野をめぐるのもいいと思った。

 

その日は粉雪が舞っていたが、ほとんど写真には写らないようだ。茅野駅の西口に直結するベルビアというビルを突き抜けて通りに出たところで左へ。

 

上川にかかる橋を渡ってすぐ左の路地に入ると、それが御柱街道といって諏訪大社御柱を曳いていく通りらしい。道なりに進んで線路の下をくぐると木落とし公園。

 

山から出した御柱をこの公園の坂の上から落として、先ほどの御柱通りを曳いていくらしい。七年(数え年)に一度、申と寅の年に御柱祭が催されて、柱に乗った男たちが最大斜度27度の坂を滑り落ちる。

 

死者が出るとか出ないとか。茅野駅に祭の様子がパネルで掲示されていた。

 

坂の上に怪しい影があるので登ってみると以前に曳行された御神木が設置してあった。

 

坂を落として川を越して諏訪大社まで曳いて建てるようだ。このあたりの神社はだいたい、社殿のまわりに柱を4本ずつ建ててある。諏訪湖の花火の打ち上げ場にまで四隅に柱が建ててある。その代表が諏訪大社御柱

 

たとえばこんな具合に、社殿のまわりを囲むように柱が4本ずつ、あらゆる大切なところに建てられる。ちなみにここは町内の、おかめ神社。

 

坂の下に円通山宗湖寺がある。その寺を抜けて突き当たりを左に曲がると、貧乏神を祀る味噌蔵があるらしいので歩いていく。

 

どこからどう見てもここに違いない。中に入ると人が出てきて、貧乏神も味噌蔵も自由見学できるというので拝見することに。

 

味噌蔵は天然蔵だった。昨今の猛暑にも天然蔵は耐えられるのだろうか。明治13年明治天皇が山梨・三重・京都を巡幸したとき茅野を通り、味噌蔵の持ち主である丸井伊藤商店の前の五味三郎宅で1時間ほど休憩した。そのとき、先ほどの寺の井戸水を使って茶を供したそうだ。

 

これが貧乏神。ところで天皇の巡幸には三条兼実や寺島宗矩や伊藤博文ら従者が500人あまりいたというからお茶を出すのも大変だ。

 

貧乏神の隣には、おかめ神社の神棚が福の神として祀られている。おそらくここの人が貧乏神を鎮めるために始めた貧乏神神社が、いまは客を招く役割を果たしているのだろう。

 

味噌蔵の向かいに寒天蔵がある。生糸で栄えた岡谷の繭倉を茅野に移築して寒天倉庫にしたもの。ナイロンにやられて岡谷の製糸が廃れた昭和の初め、入れ替わるように茅野で寒天作りが盛んになり、他に3棟ほど岡谷から移築した繭蔵が寒天蔵になった。けっこう新しい産物なんだな、寒天。

 

養蚕も寒天も江戸期に百姓が手がけたものがその後の時勢で流行り廃りしたんだろう。元は養蚕の繭倉だった寒天蔵を見て回り、粉雪ちらつく中をまた歩いて茅野駅へ戻る。けっこう寒いので、諏訪大社まで歩いてくのは見合わせた。

 

茅野駅の石碑のまわりの石もどこか御柱っぽい。諏訪大社の上社前宮まで21丁(2kmちょい)で上社本宮まで1里(4km弱)だから、寒くなければ散歩にちょうどいい距離だし、御柱を曳いていくこともできる距離だろう。

 

 

ご参考まで……

sanpoblog.hatenablog.com

 

覚満淵

大寒波が日本列島を襲うと天気予報でやってたので、これはいいかもしれんぞとスノーシューなど装備一式かかえて赤城山にやってきた。しかし、ちょっと早かったらしくて雪は少なかった。そんなこともあろうかと装備一式そこらへんに転がしておいて、身軽になって歩き回る。

赤城大沼は吹きさらしで日当たりもよいせいか雪というより氷という感じ。もうちょっと雪があれば人がテントを張ったりワカサギ釣りをしたり、賑わってるもんなのに無人に近い。周囲の山も、あまり積雪していない。昨シーズンより今シーズンはどうも雪が少ない。

だもんで、すっかり山歩きする気なくし、どっか程よく雪が積もってる平らかな場所がないかなと徘徊したら、覚満淵のまわりは木陰がちなせいかそれなりに雪原ぽい。もうここらでいいや。人が少なくて貸切に近いし。

いつもは防水防風で丈夫なハードシェルを着込むんだけど、今日は天気もいいし風もないからハードシェルはリュックに入れたまま、手袋もせず、化繊綿のジャケットぐらいで雪の上を歩く。ここは氷の上なのだけど、コスプレイヤーが3人ほどはしゃいで撮影会してたので、なんだ乗って平気なのかと氷上の雪を踏みしめた。

湿原の沼地で普段は木道か遊歩道をたどって歩くことしかできない。凍結して積雪してると大型犬の散歩やコスプレイヤーの撮影会などで雪の上に足跡が多少あり、そのあたりは歩いて平気なんだろうと見当つけてほっつき歩いた。木道は滑って危ないが雪上なら歩きやすい。

立入禁止とは書いてないが熊出没注意とは書いてある。こんなところにも熊が出るのか。冬眠していてほしいものだ。覚満淵は鹿や猪が出入りできないように柵が設けてあるけれど、熊は器用だから柵を開けたり、すり抜けたりして入ってこないとも限らない。いちおう気休めに熊鈴を鳴らして歩いた。あまり人に会わないので、熊にも会わないように。

そのような、たわいない散歩をしばらく楽しんだら体がいつのまにか冷えたので、帰る前にカレーうどんを食べてあったまった。おしまい。

スノーハイク

雪不足が取り沙汰された時期もあったようだけど今シーズンは降雪・積雪がそれなりにありスキー客やスノボ客が不自由することもないらしい。昨シーズンは雪が多かった。そこでスノーハイクを始め、すぐあきるかと思ったわりに春先まで興味が続き、顛末を以前ブログにまとめた。

sakatadayo.hatenadiary.com

今シーズンも雪があるようならスノーハイクを続けよう、雪不足ならやめようと考えて秋ごろから年末の宿を予約しておいた。中古のスノーシューを安く見つけて手に入れたので、雪が降ったら試してみよう。

スノーシューを定価で買う場合、レンタル10日分~20日分くらい出費を覚悟しなければならない。昨シーズン10日ぐらいは雪山を歩いたと思うけど、20日は歩かなかったし、今シーズン何日スノーハイクするか不明なので定価で調達する気はない。しかし中古のスノーシューは、レンタル2日分くらいの価格だった。それなら元が取れる。

12月と1月に3日、2日、2日、1日と分けて、合計8日間スノーハイクのチャンスを作った。天候や体調で全部やらないにしても、レンタルするより自前の装備でやるほうが断然いいだろう。2月以降どうするか、まだわからない。3月、4月もチャンスあるけど雪質がだんだん悪くなる。(重くなる)

やったことがなかったら、雪の上なんか歩き回っても退屈するだけじゃないかと思えるかもしれない。自分もそうだった。しかし、やってみると毎度毎度、違った面白さがあるのだ。どう違うのか、写真で表現することは難しく、言葉にしても伝わりにくいかもしれない。動画にしたところで他人がみて楽しいとは思えない。

せいぜいSNSかブログ程度だろう。前置きが長くなったけど、12月末に予定した3日、2日のスノーハイクについて簡単に記録しておこう。1月に予定している2日、1日については記録するかどうか、まだわからない。

12月20日(土)

高温になるぞ高温になるぞと先週からずっと報じられていたから積雪なんか溶けてベチャベチャになるんじゃないか(ガリガリになるんじゃないか雪崩の危険があるんじゃないか)と気を揉んだ。いざ入笠山にきてみたら降雪ではなく小雨。だが積雪は一応ある。せっかくなので装備のチェック程度にスノーシューで歩き回る。

12月21日(日)

茅野のビジネス旅館を2泊予約してあるから雪が少なくても(雨降りでさえも)どこか2000m前後の山上であと2日スノーハイク試みる公共交通機関で登ってもし全然ダメだったら読書して降りてくる。というわけで本日は車山へ。午後から雨予報のせいか、朝の乗合バスは乗客が自分1人。昨日の入笠山より車山のほうが標高あるのに雪は少ない。遮るもの(森林)がないせいか。スノーシュー履くまでもないので予備のアイゼンつけて歩く。天気が崩れる前に降りてくる。

12月22日(月)

本日は休暇で北八ヶ岳へ。一昨日の入笠山も昨日の車山も今日の北八ヶ岳も春夏秋冬きたことあるから1人ふらっとスノーハイクしても怖くない。初めてのところは同行者がいないと冬場はとくに恐ろしいだろう。一昨日から徐々に高度を上げてきてるのだが、異例の暖かさで全国的に雪不足。ここも例外ではない。最小限の荷物だけ持って、予備のアイゼンで北横岳に登頂してきた。3日目にしてやっと晴天。

預けておいたリュックに荷物を移して帰るとき、スノーシューに雨蓋をかぶせてストラップで固定してしまえば安定すると気づいた。来週の土日はこうして運ぼう。よく、剥き出しで外付けしてる人がいるけど、あれは歯が他人に当たりかねないので感心しない。

※ちなみに23日(火)の予報では、26日(金)から27日(土)にかけて長野・群馬・新潟・富山・岐阜の各県で警報級の大雪となる可能性があるというので、どうなるか期待(と若干は心配)していたが・・・?

 

12月27日(土)

年内のお仕事は昨日まで。すべて忘れてしまおうと8時ちょうどのあずさ5号で旅立ち白馬の岩岳スノーシュー持参。ちょっとは降雪あったらしく先週の入笠山・車山・北八ヶ岳よりは雪の状態がいい。半日がかりのアクセスだけで疲れたけど装備を身につけて3時間ほどスノーハイクした。白馬は外国人ばかり。スノーハイクする人少ないから森は空いてていい。

12月28日(日)

栂池高原に足を運んで例によってスノーハイク。小動物の足跡かな? と見えたのは雪の玉が転がった跡にすぎず、自分が歩いて蹴飛ばした雪もころころ転がってこうなるのがわかった。うさぎの跳ねた跡はけっこう雪に埋もれながら頑張った様子が見て取られ、うさぎはうさぎで大変なんだと思った。

くいだおれ金沢

夜行の寝台車(ブルートレイン)が上野と金沢をつないでいたころ初めて遊びに出かけた金沢に、10年ちょっと前だったか北陸新幹線が開通して、仕事で訪ねたりもしたけど遊びにいくのはしばらくぶりかも。あっ、白山に登った2022年の夏に前後1泊ずつ金沢に滞在したこと思い出した……案外きてる。

今回は純然たる遊び。というのも、単身赴任で金沢在住のクリームパン(友達のニックネーム)が3年がかりで食べ歩き、うまいものたくさん見つけたから遊びにこいというのでメンバーを募った結果、ミックとチャッキー(いずれも友達のニックネーム)が参加表明したので、師走の週末(というか金曜の晩と土曜と日曜に)2泊3日で現地集合ツアーを催行。これはそのメモ代わりの記録である。

金曜の夕暮れ近江町市場で仕事上がりのクリームパン、休みのミックと待ち合わせ、ひがし茶屋街まで歩いていく。チャッキーは仕事を終えてから移動し、夜の神社で待ち合わせて2軒目で合流の予定。とりあえず3人、ちょう吉でおでん。

北陸だけあって東京のつもりで出歩くと寒さが身にしみ、おだしがしみたおでんがうまい。焼鳥もうまい。逐一は撮ってないんだけど、おでんと焼鳥のほかにもクリームパン(ニックネーム)のおすすめをミックと3人でいただく。チャッキーを待ちながら。

左下のパテはフランスのロワールで休日にブルジョワがピクニックに出かけて家族で食べる味もかくやと思われる。そして、店主の入魂ラーメン1杯を3人で分けて食べる。ラーメンだけ食べに店にくるのはお断りの1杯だが、いろいろ食べた後に1人1杯ずつは(食べられないことないが)差し控える。

主計町へ歩いていき、時間になるとチャッキーが出現するはずの神社をおがむ。加賀前田藩の侍は表立って茶屋に出入りすることを憚り、この久保市乙剣宮に参詣すると称して脇の小道から馴染みの元へ急いだと、クリームパンが教えてくれた。

その小道がこちら。主計町茶屋街は、どう見ても一見さんお断りの店というか家ばかり並び、旅行にきても勝手を知った人の案内がなければ門戸をくぐることは到底できっこないように思える。

一葉というバーでゴッドファーザーなど飲む。映画の話が楽しかったので70年代の名画を想起する名前のカクテルを……禁酒法の時代はジュースを飲むフリしてアルコール嗜んだんだろうな、とか余計なことも考えつつ、チャッキーも合流したし深夜零時ごろまで世界から戦争をなくすにはどうすればいいか語り合う。

続きは明日にして各自の寝ぐらへ帰った。これが金曜の晩のこと。翌朝は各自で朝食を済ませて、クリームパンがチャッキー、ミック、サカタだよの順にレンタカーでピックアップしてドライブに連れていってくれる。

大江千里坂下千里子森下千里森高千里……にちなんだわけでもないだろう千里浜は車両が入れる稀有なビーチということを踏まえて、千里浜をレンタカーで走るべく、クリームパンに運転してもらう。

荒波のため砂浜へクルマで乗り入れることはできなかったが、荒波(?)をカメラに収めることはできた。UFOのまち羽咋町という看板をみて、いくらUFOを探しても見つからないのでジェラートを食うことにした。

マルガージェラート能登本店にて、バニラとピスタチオのジェラート。世の男性の多くは◯◯◯チオの文字列をみるとオーラル的なことを想像するそうだけど、ぼくはピスタチオなんですよ。ええピスタチオしか思い出しません。他には何も! 何もね。

市内へ戻り、加賀百万石の祈願所といわれる通称忍者寺、正式名称・正久山妙立寺(みょうりゅうじ)でガイドツアーを頼む。落とし穴階段、仕掛け賽銭箱、秘密の抜け穴、隠し戸、仕掛け賽銭箱などなど複雑な構造を持ち、外からは想像もつかない恐ろしい寺(というか軍事拠点)だった。

そうこうするうち昼どきとなりお腹がすいてきたので、クリームパンが毎週のようにカツカレーライスとおつまみとビールとハイボールで昼飲みしている聖地いろは食堂へ4人で雪崩れ込む。

金沢でカツカレーというと十中八九カツカレーうどん(なんだそれ)が出てくるので、カツカレーライスとフルネーム(?)で注文せねばならないという。テレビではアド街石神井特集を流してして、なんで金沢で地元の映像を見ねばならんのかと口々に愚痴りながらも見届けた。東京で見るより真剣だったかも。

オムライスをつまみに飲むのも悪くない。中身はチキンライスではなくポークライスだった。他にもシロの味噌煮込みとか、餃子とか、イカ焼きとか、いろいろ食べながら昼飲みしたら完全にできあがった。昼からできあがってどうする。

いったん解散し、夕方に昨日と同じ場所で再集合することに決めて各自で午後を過ごす。昨夜の神社の真ん前にある、泉鏡花記念館へ。東京の麹町にあった終の棲家の跡を訪ねたとき立札しかなくて残念だったけど、記念館には麹町の住居の中の様子がわかる展示が充実していた。ラッキー!

隣接して柳宗理のデザイン研究所があり、そっちものぞいてみる。写真を撮って構わないというので、何枚か撮らせてもらった。面白いな金沢。

香箱蟹は金沢で11月上旬から12月下旬まで、2か月ないぐらいの期間しか食べられないので、当初は2026年の冬に催行予定だったツアーを繰り上げて師走に催行した。おそらく蒸した香箱蟹をいちど解体して内子と外子と蟹身などを甲羅にきれいに並べてある。足は10本あるけど、ハサミの1対と反対側の1対は小さくて食べられないので他6本を使っている、と思う。

撮り忘れたガス海老は足が早いので金沢から外へ出回りにくいという話で、それだけに新鮮でおいしかった。傷みやすいから捨てる「カス海老」が語源というのは本当だろうか? どじょうの唐揚げ(左上)おいしかった。ふぐの卵巣のぬか漬け(右上)は数年で毒が抜ける珍味と聞き、おっかなびっくりつまんだら酒が進む。げんげんぼう(左下)は、他県で幻魚、げんげという名で出てるのを食べたことがあり、脂が乗ってて発酵しておいしい。ほたるいかの素干し(右下)はライターで炙って食べると内臓がとくにおいしい。

それから片町のバー、一乃屋へ。昨夜はカクテルを飲んだから今夜はスコッチをいただく。世の中の争いごとをなくすにはどうしたらいいか語らい杯を重ねる。こんなに飲んだり食べたりしていてよいのだろうか?

翌朝はクリームパンが早朝6:30に並んで整理券を確保してくれた、近江町市場の行列ができる回転寿司もりもり寿司の前に7:55集合。8:00オープンと同時に入店して朝ごはん。

白えび軍艦、ほたるいか黒造り軍艦、梅貝、生がす海老、のど黒の北陸五点盛りとぶりあら汁をいただき、びんとろたたきと白えび唐揚げを吸い込んだ。図書館が開くまでドトールでコーヒー飲みながら、世界からトイレを流さない人をなくすにはどうしたらいいか爽やかに語り合う。

レンタカーで石川県立図書館へ。失われたアレキサンドリアの図書館もかくやと思わせる立派なところで、開架の本がじつに閲覧しやすい。近所にあったら週4ぐらい通いそう。

図書館が充実してる街はいいな……もっとも最近の政治と行政の傾向として今後なかなか望めなくなりそうだけど。

さらにレンタカーを走らせてもらい、白山市幸明町331-1にあるバイパス沿いのキッチンユキで、ハントンライスの昼ごはん。オムライスに白身魚のフライ(+タルタル)が乗ってる。オムライスの中のライスをチャーハンに変えると、ハントンベーキライスと称するものになる。

にし茶屋街のかわむらで甘納豆を買って新幹線で帰途につく。みんな別々の新幹線で移動するのはまあいいとして、金沢在住のクリームパンも月曜に東京で会議があって夕方の新幹線で上京するという。さすがに東京で再集結して飲もうという話には、きょうのところはならなかった。そりゃ、そうだよね。

 

秩父夜祭

慈眼寺に陣取って日暮れから待っていると、秩父夜祭の信者行列がまずやってきた。町名を書き入れた提灯を高く掲げて前を通り、だんご坂を上ると御旅所でなにやら儀式をおこなう音がする。

向かいの旅館に泊まる人たちは窓から夜祭をながめることができて、うらやましい。鍋かなんかで温まっており、こちらの寒風ふきすさぶ見物とは対照的。こっちへ「寒いでしょう!」と声をかけたりする。大勢「寒い!」と答えた。確かに。

7万人の人口をもつ秩父市に、夜祭のときは20万人の見物客が押し寄せる。だから慈眼寺にも人がびっしりいるし、見上げればアパートの階段や通路にも人がびっしり詰めかけている。道路の人だかりもすごい。

神馬がとおる。撮影するのは構わないが、フラッシュを焚いたり、ライトを当てたりすると馬が慄くので絶対やめてくださいと警備の人が念を押すのに1人か2人フラッシュ焚いた。ライトを当てる人もいた。フラフラ近づいて転倒した老人も。

だんご坂には踏切があり、ときどき電車がとおる。遮断機がおりると行列がとまる。踏切をこえて坂を上りつめたら、そこで儀式があるらしいのだが遠くて見えない。立入禁止なのに、フラフラそっちへ老人が行こうとする。警備の人に止められてもトライする。そして転倒したり。懲りない人だ……。

きっと神馬がびっくりしないタイミングで、見物が退屈し過ぎないように、ときおり花火があがるのだが、これがなかなか悪くない。秩父夜祭のルーツは江戸時代、三百うん十年前にさかのぼるというけれど、花火はいつごろ追加されたのだろうか。

武甲山男神秩父神社の女神と年に1回まぐわうのが秩父夜祭だともいう。行列の目玉はこのような笠鉾と屋台の曳き回し。その向こうに花火があがると、なかなか派手だ。山車を曳き回す祭はあちこちにあるが、花火と笠鉾や屋台が同一線上にみえるのは秩父夜祭の特長かも。

同じ場所でジッとしてると寒いので、3時間ぐらいねばった後、慈眼寺のうらから聖人通りにまわり込み、人混みと交通規制をさけて西武秩父駅のほうへ迂回した。20万人もきてるから、ちょっと人のいないところを探したくて。

かえって駅前は香具師の出店が立ち並び、人がごった返して花火を背景に自撮りしてる。出店の食い物と花火を楽しむだけで、行列の笠鉾も屋台も見ずに終わる人が何万人もいる。むしろ多数派ではなかろうか。べつにかまわん。道の駅のほうまで歩いたら人が減り、一息つくことができた。

 

なんどめだ宇都宮

なんにも用事がないけれど宇都宮にやってきた。戦場ヶ原をスノーハイクしたとき、誰かが宇都宮動物園はとても癒されると話していたのを小耳にはさんで大脳新皮質に刻み込んでいたので、アクセスをスマホで調べて、西口の8番乗り場から山王団地行きの路線バスに乗ってみた。幼いころバスで迷子になって警察署でラーメンごちそうになってたら親が迎えにきたときのことを、なぜか思い出した。

聞きしにまさる、のどかぶり……むこうに謎の城がある。あれは何の城だろう? と真っ先に近づいて確かめたら、「この謎の城は職員にとっても謎です」といったような謎の掲示がしてあった。動物を見る前に謎の城を見物してしまった。振り返ると、もうそこは動物園ゾーンを通り抜けた遊園地ゾーンなのだった。

のどかな遊園地がこぢんまり広がっている。ちいさいこどもがいれば連れてくると喜ぶだろう。ジェットコースターその他のアトラクションを眺めていると、スリルを感じるというよりリラックスしてしまい、頭のネジをはじめ全身のネジがゆるむ。

ちなみに遊園地ゾーンの全貌はというと、まさにこんな感じ。そろそろ動物園ゾーンのほうへ行こうと思って、入場口のあたりを目指して当てずっぽうに歩みを返すと、レストラン&ショッピングのゾーンを通り抜けるかたちになった。

うどん、そば、みそおでん、焼きそば……味自慢のラインナップが渋い。おみやげのテイストが何周か回ってクールかもしれない。

ハイエナがいた。他の動物たちが、人間を含めてみんなのんびり、ゆったり過ごしているのに、このハイエナだけは忙しそうに檻の中をクルクル急ぎ足で徘徊していた。そういう習性なのだろうか、それともメンタルがどうかしてるのだろうか?

ホワイトタイガーのしぐさは、うちのネコとたいして変わらない

草を食べてるのはマーラかな?

たぶんリスザル

ライオンは吠えているわけではなく、あくびしてるだけ

宇都宮動物園でしばらく過ごして、すっかり副交感神経優位のリラックス状態になってバス停に戻り、駅のほうへ行くバスに乗る。2停留所めの「若竹の杜 若山農場」で下車して竹林のようなものが見えるほうへ歩いていくと、筍と栗の農家があった。

入場料を払うと竹林を見物できる

竹筒にお茶を入れて飲ませてくれる(有料)

いろいろな映画やCMのロケ地になっているそうだ。お茶を飲んだあとの竹筒は、ビニール袋に入れて持ち帰っていいことになっている。もしかしたら飲酒に使えるかもしれないので大事に持ち帰る。同じ路線のバスに乗り直し、東武宇都宮駅のあたりで下りてアーケードをぶらぶら歩く。昼間から飲み屋に人がぎっしり。

宇都宮は妖精のまち

二荒山神社は何度も詣でたことがあり、石段を上ると疲れるので素通りしようとしたら隣に表参道スクエアという建物があることに気づき、ちょっと入ってみた。5階に無料の「うつのみや妖精ミュージアム」が……。中に入る。妖精の絵や、妖精の彫刻が展示されている。そこは撮影禁止だけど書籍コーナーは撮っていいみたい。

天然痘が流行したとき鯉の妖精が現れて食べたら天然痘が治ったとか……それで鯉のぬいぐるみが土産物店にあるのか

なんにもすることがなくなったので、とりあえず駅のほうへ歩いていく。80年前に戦争で焼けたのだろうか、とてもガランとした妖精のまち。

焼肉店のような名前のスパの看板

駅前の大きなビルボードには、徒歩8分で北関東最大級の源泉かけ流し温泉に入れるようなことが表示してある。そういえば、あそこへは何度かいったことがある。時間つぶしにちょうどいいかも。送迎バスも出ているが、歩いて南大門へ向かう。

やっぱり焼肉店のように見える……そして館内に焼肉店もある

日が暮れるまで地下1200mから湧き出す湯で身を清め、そこからほど近い居酒屋さんに栃木の酒を飲みに赴く。おそらく近くで採れる大谷石で作ったであろう石造りの蔵を改装して、1階と2階に客が入れるようにした、料理おまかせで各地の日本酒を取り揃えた飲み屋さん。

えーと「望」でしょ、「玉櫻」でしょ、「辻善兵衛」でしょ、「澤姫」でしょ、それからそれから……主に野菜と海鮮を肴にどれくらい飲んだのだろうか。すっかり酔ってしまったので、そこらへんでビバーク(野宿)。しっかり熟睡する。

翌朝バスで美術館へ

ホームレス気分を味わったところで駅前の喫茶店でモーニングのカレーとコーヒーを吸い込み、また路線バスに乗り込む。ルネ・マグリットの「大家族」を所蔵している宇都宮美術館へ、いい機会だから行っておこうと思ったのだ。1996年に宇都宮市が6億円ほどで購入したらしい。バブルは1989年にはじけたというが、90年代はなんとなくバブル気分が抜けてなかった。手放すときが今後こなければいいが。

うつのみや文化の森の一角に美術館がある

可能なかぎり、もとの丘陵地を生かした公園の中に美術館がおさまっている。建物に入って美術品を鑑賞するより、秋の公園を散策するほうが心洗われるのではあるまいか。そんなふうに感じたけど、せっかくここまできたのでまずは美術館に入っておこう。バスの本数もすくないことだし、じっくり美術鑑賞しても森を歩く時間は十分に残るだろう。

ライシテからみるフランス美術という企画展を2025年10月12日から12月21日までやっており、興味があるので偶然いいタイミングでやってきた。ライシテというのはフランスの政教分離原則のことで、フランス革命時に国家が宗教と中立を保つことになり、反動で宗教的な美術が盛り返したり、まったく異質なオカルト傾向が強まったり……といった変化を年代順にたどることができる。(日本の政教分離は崩壊してるからなー)

常設の「大家族」も今回その文脈のなかに展示されていた

館内からも外の景観がまぶしく輝いてみえた

理性の光と信仰の光のせめぎ合いを展示でながめたあと、自然の光をうつのみや文化の森で堪能してから、気が済んだのでバスに乗り一目散に東京まで戻った。宇都宮美術館と森は再訪してもいいかもしれない。


清津峡

なんのへんてつもない峡谷ではあるけれど、日本三大峡谷のひとつなのだそうだ。ここは越後の清津峡……ネットで日本三大峡谷を検索すると、富山の黒部峡谷、三重の大杉峡谷と共にここの峡谷も上がってるようだ。ふーん、そうかと歩いていく。

どこまでも遊歩道がつづくことを期待したんだけど、料金(1200円だったかな)を払ってトンネルを通行しないといけない。しかたないのでトンネルを通る。こうなると峡谷というより隧道という感じ。自殺の名所、華厳の滝の観光トンネルをつい連想してしまう。

どうやら峡谷に沿うようにトンネルが伸びているらしい。全長750m、行き止まりで戻ってくると往復1500m。ひたすらトンネルを歩きつづけると飽きるので、3か所ほど横穴から峡谷をながめることができる。突き当りでも峡谷をながめられるらしい。途中、照明などに変化をつけてある。

赤い……赤い……こういう仕掛けはべつになくて構わないから普通に川辺を歩きたいものだけど、どうしてトンネルにしたんだろう。冬は雪に埋もれて川辺を歩けなくなりそうだが、そのせいだろうか。わからない。

第一見晴所のほうへ寄り道する。横穴が川辺に口を開けていて、峡谷をのぞける。1500万年前、海底火山の噴火活動により、噴出物や火山灰が堆積して固まった緑色凝灰岩を多く含む地層(七谷層)が形成され、そこへ700年前にマグマが流入して石英閃緑ひん岩となり、冷えて固まる際に柱状節理ができたそうだ。その柱状節理が観察できる。

第二見晴所のほうへ寄り道すると、柱状節理をイラスト化したようなペイントで目がまわる。ダダ星人を思い出すゼブラ柄。これはアートのつもりかもしれない。中央で通行の妨げになってそうな光る物体は薄々そうじゃないかとは思ったがトイレだった。その向こうの穴から柱状節理がよく見える。

約260万年前に柱状節理が隆起して、そこを清津川が浸食することにより、谷が深く刻まれて清津峡ができた。30年ほど前の1996年10月にトンネル開坑。それまでは川沿いを歩けたのだろうか? 2018年5月に「大地の芸術祭」の作品としてリニューアル。何のことかわからないが、2021年4月に第二見晴所に作品(ゼブラ柄のことか)が追加されたという。

第三見晴所へつづく横穴が、これまたアート風だった。その向こうに、やっぱり柱状節理が見える。パターン化してマンネリだけど、こうでもしなければさらに退屈だろうから、ありがたくトンネル内の順路をたどる。

柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理、柱状節理……

トンネルの青い通路を抜けると、そこは突き当りで峡谷の柱状節理をのぞく手前が鏡面になっている。床には水が張ってあり、鏡面の一部をなしている。人々が順番を待って記念撮影している。列に並ぶのが嫌だから、さっさと引き返してトンネルから出た。

 

立ち枯れの木

大正4年(1915)のことだから、いまから110年前に焼岳の噴火で大正池ができたとき、水没して立ち枯れた木が林立したまま昭和になり平成になり、上高地の名物として日本人を引き寄せたようだけど、円下落によるインバウンドで諸外国の旅行客が殺到する近年は立ち枯れの木が倒れてゆき、今年みたら大正池にもう1本もなかった。

そりゃ、立ち枯れて110年も経てば自然に倒れるに違いないので、よく考えたら惜しむほうがどうかしてるくらいのものだけど、しかし梓川の上流にあたる田代池だとか、さらに上流の湿地には立ち枯れの木らしいものが水面に数多く屹立していて、全然いいじゃんと思ったのをふと勤務中に思い出した。そしてサクッとブログに投稿した。サボリともいえない一瞬のできごと。

クマとサル

今年もまた、どこへ行ってもクマが出る。駒ヶ根の旗の台バスセンターの掲示には、音の出るもの(鈴やラジオなど)を身につけ、人間の存在をアピールしてくださいなどと書いてあるが、一説によると、クマのほうも近ごろは鈴やラジオの音に慣れたので、鳴らしても構わず近づいてくることがあるとか。

上高地では8月24日に田代橋~大正池ツキノワグマ1頭が目撃され、翌日は明神橋の付近でツキノワグマ1頭が目撃されたと掲示されていた。これが同じクマだとしたら、ずいぶん広い範囲を我がもの顔してクマが歩いている。大正池から明神橋まではヒトが2時間かけて歩く距離だ。

中間にある小梨平キャンプ場では、クマがテントを漁りにくるので食べ物をテント内に放置することが禁止されて、厳重なカギのかかる倉庫に必ず入れなければならない。大正池から明神橋へ、明神橋から大正池へクマが徘徊する途中、キャンプ場に寄って腹を満たすのだろうか。

クマも出ればサルも出る。平湯バスターミナルで乗り継ぎ待ちをしていたら、注意喚起の掲示になんと、爆竹やロケット花火による追い払いが有効ですと書いてあった。本当だろうか? ただし、追い払いは決して一人では行わないでくださいとある。思い描くと、集団でヒトが爆竹やロケット花火に点火してサルを追い回す情景は滑稽だ。クマにはこの儀式、有効だろうか?

 

こゝが こゝが


ひさしぶりに 手を引かない

親子で歩かず うれしくない

さいころが 浮かんでこないよ

おっ母さん

こゝが こゝが 二重橋

記念の写真を 撮りません

といいながら撮った二重橋……しかしあれば、左右にアーチが2個あるから二重橋というわけではない。手前と奥に橋が2本あるから二重橋。というより奥の正門鉄橋が本来の二重橋で、手前の正門石橋との総称で二重橋ということもあるそうだから、手前に見える石橋だけなら正門石橋と呼ぶしかない。

島倉千代子が「こゝが こゝが 二重橋」と歌うとき、正門石橋(手前)と正門鉄橋(奥)のどの部分をイメージしていたのか、2本ある橋の全体を指していたのか、いまとなっては誰にもわからない。

振り返ると広い空き地がある。いまの皇居が徳川幕府江戸城だったころは大名屋敷が立ち並ぶ一等地だったこの場所が、皇居前広場(宮城前広場)になったのはいつのことか。関東大震災(1923)の折は多くの人が避難生活を営んだという。皇紀二千六百年祭(1940)の折は、ここに10万人の臣民を集めて、陛下のお姿を拝謁させるための公園として整備された。それが現在のありさま。

南朝に仕えた楠木正成銅像は、この広い公園の中でも北朝の皇居から思いきり離れた場所に立てられていた。七生報国、七たび生まれ変わって朝敵を滅ぼすと誓った楠木正成・正季の親子にとって、いまや朝敵とは誰になるのだろう? と首を傾げた。

オアシス

あれはいつのことだったか、普通の人間なら頭が痛くなるほど標高の高い、中印の国境に近い砂漠を移動していたら、川のそばだけ緑が生え初めて生い茂り人が家を建て初めて生き古す様子が目に入った。

 
あれもまた一種のオアシスか。荒涼とした宇宙の中に水を湛えた星がひとつあり、その星のわずかな陸に根を張り下ろし生き古す、おのれらの住処もまた一種のオアシスか。あのオアシスと変わりはせん。
 
どこまでも広がる乾燥した高地を移動しながら、変わりはせん。あれとこれと変わりはせんぞう。いずれ劣らぬ過酷な環境の中に偶然が誂えた奇蹟のオアシスに変わりはせん。酸素不足なのかそう閃いた。

古い宿ほど広い話

 

新幹線の駅前に、いっさい繁華な様子がなくて驚くことが時々ある。コンビニもなければ、飲食店もわずか。
宿泊施設も、名の知れぬ老舗らしいのがポツンと一軒あるだけ。駅から離れたところに繁華街があるのは、
鉄道を敷いた明治の政府に戊辰の戦争で歯向かった土地だから嫌がらせされた場合もあるし、
こんなところには街など初めからなくて巨大資本のモールが僻地に突如、出現する場合もある。
モールならまだしも、アウトレットのこともある。そんなことより、このホテル……たしかに
ホテルの看板を駅前に掲げていた(一部が壊れている)のだが、部屋に入ったら畳に布団敷き。
この手前に洋間(リビング)があって、テーブルとイスとテレビと冷蔵庫とエアコンがあり、
ホテルといえばホテルだしバスとトイレと洗面所はそれぞれ入口の近くに独立してる。
古い宿ほど広い。全国チェーンの最新ホテルなら、同じ面積で2部屋にするから
たまには鄙びた土地に泊まるのも面白い。
 

 
翌朝バスで山に入り、徒歩で行くしかない温泉宿のテント張り場でキャンプした。張り場は
宿から山道を50mほど歩いて登ったところにある芝生の平地でヘリポートを兼ねていた。
キャンプしてるときヘリがきたら吹っ飛ばされるだろうと想像すると楽しくなった。
人里離れた山奥の温泉宿だが創業150年以上の老舗で、登山客が出没するのは
創業70年か80年ぐらい経ってからだろう。山小屋を兼ねながら温泉宿でもあるので
お湯に入らせてもらうついでに見聞きしたところ、夕食と朝食は部屋までお膳で
運んできてくれるシステムのようだった。大抵の山小屋はそんなことしない。
古い宿ほど広い、だけでなく流儀が独特で面白い。テント張り場も後付けゆえに
離れた場所でヘリポート兼用なんだろうし、トイレが遠くて玉に傷だけど
たまには鄙びた土地に泊まるのも面白い。

 

 

銀座の稲荷


東京は稲荷が多い。ちょっと歩くとすぐ社に当たるので、全国どこでもそうなんだろうと思い込んでいたが、どうもそうではないらしい。日本全国で数が多い神社の筆頭は八幡神社で、その次が稲荷神社だから、順当にいけば東京を歩いても稲荷より八幡に当たる機会が多いはずだが、実際は稲荷に当たるばかりで八幡はそこまでじゃない。つまり東京は稲荷が集中してるようだ。

そういえば銀座の外れの勤め先の傍らに稲荷の社がある。最近、社の両側の建物が取り壊されてビルの新築工事が開始したのだが、その稲荷だけは取り壊されず、工事現場と工事現場の間にはさまって健在だから、おそらくビルの谷間に今後も社があり続けるのだろう。勤め先はこの社の参道をつぶして建てたとかで、罪滅ぼしなのかどうか社内に何か所かお札が貼ってある。ことほどさように都内は稲荷が存在感を示している。

そういえば近くの歌舞伎座の角にも稲荷の社がある。歌舞伎座が10年ぐらい前に建て替えられる前は、これほどまでに社が目立つことはなかったから、おそらく敷地内のどこか別の場所から遷座してきたか、場所は同じでも社の仕立てが変わって存在感を示すようになったのだろう。地下鉄の出入口からの導線に立ちはだかるので、通勤の際にお参りの人が通行の妨げになる機会がしばしばあり、警備員さんがよく交通整理している。

その先の東劇のビルにもお稲荷さんがある。おそらく松竹の社員の休憩所に鎮座していて、この写真は裏側から写したかたちになるようだ。たまには表に回ってみようと周囲をうろうろしてみたのだけど、うまく入り込むことができなかった。あまりしつこく徘徊したら不審者のように見えると思って、裏から撮るだけであきらめた。歌舞伎座にしても東劇にしても、いわば客商売なので稲荷を祀っているのだろう。だったら、その先の新橋演舞場にも稲荷がありそう。

さっそく行ってみると、やっぱり通用口に新橋演舞場稲荷大明神が祀られていた。ここは手前に由緒を記した看板が掲げてあって、「演舞場稲荷大明神 江戸時代享保年間、松平周防守の下屋敷跡で歌舞伎名狂言『鏡山旧錦絵』で有名な『尾上の井戸』と並び一名『お初稲荷』と称されている」とあった。わかるような、わからないような、何か大事なことをばっさり省略してあるような説明書きである。歌舞伎で取り上げる以前からあるのか、歌舞伎にちなんで新しく設けられたのか、そのへんもよくわからない。

勤務先にしても歌舞伎座にしても東劇にしても銀座の外れで築地に近く、演舞場などは「新橋」という地名を冠しているほどだから銀座の中心ではない。中心のほうにも、やはり稲荷が多いのだろうか。仕事の手が空いたとき、そっちのほうへと足を延ばしかけたら、中心にさしかかる前にさっそく稲荷があった。ビルの壁面のシャッターが夜になると下りてきて社を守るらしい。いろんな稲荷があるものだ。

このビルの屋上に稲荷の本殿があった。ということは道路に面していたのは拝殿らしい。ビル屋上の稲荷は地上を歩いてるだけでは気づきにくい。「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」という俚諺というか、ことわざのようなものが江戸に流布していたそうだ。それぐらい、江戸には伊勢屋と稲荷と犬の糞が多かった。犬の糞は減ったし、伊勢屋を名乗る店も今はさほど多くない。しかし稲荷は路面だけでなくビルの屋上などにも、数を減らさず現存してるようだ。

すぐ先の三越(デパート)の屋上にも何かあったなと思い、新館の9階から本館の屋上(テラスと名づけられてる)へ行ってみたら、それは稲荷ではなく地蔵だった。間違えた。地面から出土したという地蔵を屋上まで運んで、銀座出世地蔵尊と称してる。有名だけど初めて見た。右隣の社は三囲神社(みめぐり神社)といって、ご神体(彫刻?)は向島の本社にあるという。そこ行ったことある。隅田川七福神の恵比寿と大國も祀られ、閉店した池袋の三越からライオン像が移してあった。

同じ銀座4丁目を横移動すると並木通りの手前の路地に稲荷があった。傍のパネルを読むと「銀座の稲荷神社の多くは、ビルの屋上に上げられてしまったケースが大半です。しかし、ここは周辺の方々がしっかりとお世話してきたこともあり、路地の中ほどの大地に鎮座しています」……ビルの屋上に上げられた稲荷はしっかりお世話されてないと言わんばかり。

よく目につく稲荷だが実際はビルの屋上に上げられてしまったケースが大半だから、実際は人目に触れない稲荷がまだまだあるようだ。ここは食品のお供えを迷惑がって断っている。不衛生だからだろう。地元でお世話してる社なのに、よそからきた人が傷みやすい食品などを置き去りにすると困るわけだ。

各路地に稲荷があってもいいのだが大半がビルの屋上に上げられてしまったせいか、探すとなかなかない。並木通りを北上したら1丁目にも稲荷があった。ここも路地を入ったところにある。ビルを建てるとき残された風情だ。

そしてお揚げさんが袋のままお供えしてあった。地元の人がお供えする分にはよいのかもしれない。ただし賽銭箱に入れてはいけない。取り出しにくいから。

銀座は老舗の多いところだったのに外資に蚕食されて歯が抜けたようになってしまった。外資は稲荷などビルの屋上に上げたりしないかもしれない。外資の蚕食が激しい一帯は稲荷が減ってるんじゃないだろうか。

1丁目、3丁目、4丁目には稲荷があったのに2丁目あたりは外資が多いせいか見つからなかった。もういちど4丁目の三越のほうへ戻り、晴海通りを渡ったら5丁目のあづま通りという路地に稲荷があった。路地が残ってる場所には稲荷も残っているらしい。

傍の立て札には「戦後メインストリートとして発展したあづま通り・三原小路に火災が続発し町内の者も不思議に思い調査の結果この一角にお稲荷さんが祀られていたことが判明そこで町内一同相談の上京都伏見稲荷講中をつくりあづま稲荷大明神命名」とある。以後まったく火災は起こらないという。その稲荷の脇でタバコ吸ってる人がいた。いつもやってそうな身なりだった。

そこから6丁目のほうへ歩くと、あづま通りを潰して建ったGINZA SIXがある。仲が吹き抜けなのは、あづま通りを潰した償いかもしれないが潰したことに変わりない。路地の稲荷はどこへ行った? やっぱりビルの屋上に上げられてGINZA SIXのテラスの長い長いウッドデッキのコースを抜けたら稲荷があった。

傍のパネルを見ると関東大震災で元の町内が焼けずに済んだのは稲荷のおかげらしい。震災後その地域に松坂屋デパートが建ち、屋上に稲荷が移され、さらに松坂屋が取り壊されてGINZA SIXができたとき稲荷があらためて屋上に移された。それがこれだと。典型的なパターンである。

7丁目はビル脇の路上に稲荷があった。このへんは外資の蚕食が徹底していないものらしく、堂々と鎮座している。源平の合戦の当時からあるようなことが傍の金属板に彫られていた。法螺ではないかと思ってしまった。

同じ7丁目を花椿通りに沿って横移動していくと、ちょっと怖い感じの路地に稲荷がありそうな雰囲気。せっかくだから曲がりくねった暗い路地を産道など思い浮かべて突き進む。

だいぶ心細くなったころ視界が開けて生まれるように稲荷があった。安産できそうな気分になった。その先は明るい通りに繋がってるので、向こう側から参ったほうが手っ取り早かったに違いない。京都かよ、とつぶやきそうになった。

そしてやっぱり、お揚げさんが袋のままお供えしてあるのだった。

 

 

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冬の山小屋


あの山は夏に登ったことがある。夏というより秋だったかも。そのときは素通りした山小屋にこの冬、ひょんなことから泊まった。山小屋に泊まろうと思うのは夏か、せいぜい秋ぐらい。冬はなかなか行かない。そもそも冬は営業しない山小屋も多いではないか。

この小屋は営業していた。テレマークスキーの講習やガイドツアーをやっているというので1泊2日で講習とガイドをお願いして転がりこんだ。昔はテレマークスキーに力を入れる山小屋がけっこうあったそうだけど、だんだん減ってきてしまった。道具を売ってる店もどうやら希少になっているらしい。

もちろんレンタルで講習を受け、翌日の朝、帰る前にガイドツアーに参加する。参加といっても自分以外の2人は道具持参しかも「革靴細板」にこだわりのあるベテランさんで、レベルが全然違うから別行動。そんなわけで両日ともマンツーマンだった。けっこうへろへろになった。

宿泊者が少なければ個室になると聞いていたが、登山のお客さんが団体で詰めかけて相部屋となった。それは全然いいのだが、8時消灯というのは普段の生活サイクルと違うので眠れるかどうか…… 電波が届かないからこっそりスマホを見てもつまらないし、標高2000m以上あるから冷え込むんじゃないだろうか。

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冬季は食事の提供がないそうなので自炊の用意をしてきた。といってもお湯で戻すような非常食ばかり。お湯は500ml分けてもらえるので、夕食は持参した湯で足りたし朝食はもらった湯でつくった。燃料いちおう持ってきたけど、調理場(食堂)よりもコタツのほうが暖かいから、自分では湯を沸かさずコタツで食事を済ませた。

寝泊まりする部屋には暖房設備がない代わりに1人1個あんかを貸してくれる。豆炭が入ってるそうで、24時間以上ずっと熱を発する。これだけでけっこう暖が取れたし、消灯後わりとすぐ(1時間後ぐらい)眠れた。冬の山小屋も悪くないものだ。

 

そこで別の山小屋にも泊まった。一応ホテルという名称になっているが相部屋だし、実質山小屋だと思う。しかし暖房はあり風呂もあり食事の用意もある。料金も星つきホテルぐらい取るが、街の安いビジネスホテルの便利さ安直さには及ばない。ロープウェイ直結で立地がよく予約が先々まで埋まってしまうので、じつは手配したのはこっちが先だけど、転がりこんだのはこっちが後。

相部屋だけど畳が敷いてあるし、ちゃぶ台もあればテレビもある。消灯時間も起床時間も宿が決めることはなく、その気になれば電灯つけっぱなしで寝ることも不可能ではない。相部屋だから話し合いで消灯10時、起床6時に決まった。わかす燃料の関係で風呂は9時まで。Wi-Fiもあるし4Gの電波も入った。トイレ共用(室外)で部屋の鍵は相部屋ごとに1つだけど、少しも不便じゃないわ。手足を伸ばして布団で眠れる。

給湯室の水道からは80℃のお湯がいつでも出るから、ポットで部屋に持ち込んでもよし。Thremosなどに詰めて外に持ち出してもよし。共用の大きな冷蔵庫もあり、冷やしておきたいものに部屋番号(と個人名)をマジックで書いて冷蔵庫に入れておけば冷たいものが楽しめる。氷をもらうこともできる。まるっきりパラダイスではないか。吹雪で外に出られなかったのが玉に瑕といえば玉に瑕。

相部屋の人がペットボトルに焼酎を入れて持参していたので、宿のカップと氷を使ってロックでご相伴した。山小屋に泊まるとご相伴しがち。じつは前の山小屋(あんか貸してくれるとこ)でも、こたつで暖まっていたら純米吟醸の日本酒をご相伴になった。山泊りのときぐらい飲まずに済ませようと思って荷物を軽くしてきても、結局は飲むことになりやすい。そして、ふるまい酒ほどうまいものはない。なぜだろう、どうしてなんだろう?

夕食も朝食も付いている。夕食もおいしかったが、朝ごはんの充実っぷりに目を見張る。標高2612mの宿泊施設でこんなサービスが受けられるとは! ロープウェイで一気に1000mほど7分間で登ることもあり、高山病の症状がやや出たように思うけど、富士山の山小屋と比べたら天国と地獄のような開きがある。もちろん、こっちが天国で富士山が地獄。といっては悪いけど、あそこは霊界のようなもので、こっちは現世そのものだ。

 

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